τὸ Μίττου Γραμματείδιον

«τὸ Μίττου Γραμματείδιον»とは、Μίττονのγραμματείδιον(物を書くためのタブレット)のことです。

コンピュータエアプでも基本情報技術者になりたい!

はじめに

こんにちは/こんばんは。心にいつも主呼対同形、みっとんΜίττον, ου, τόです。突然ですが、皆さまは「基本情報技術者試験」という資格をご存じでしょうか。

この資格は運営団体の公式ページによると「ITエンジニアの登竜門」に位置付けられ、「ITを活用したサービス、製品、システム及びソフトウェアを作る人材に必要な基本的知識・技能をもち、実践的な活用能力を身に付けた者」が対象者像だそうです。見るからに、コンピュータと人間の織りなす複雑怪奇な構造から逃げ続けてきた私のような人間には、到底手の届かなそうな資格です。

しかし、何を血迷ったか今回私はこの試験を受けてきました。しかもノー勉で。

自己紹介

ただ「コンピュータと人間の織りなす複雑怪奇な構造から逃げ続けてきた」と自称するだけでは、私のIT経験について客観的な情報を提供することはできないので、簡単な自己紹介をします。

私は博士課程に所属する学生で、数理論理学を専攻しています。21世紀もその四分の一を終えようという今日では、数学を専攻することは、ほとんど必然的にTeXという組版システムと向き合う必要性を含意します。ここで真面目に向き合っていればもう少しコンピュータと和解できていたのかもしれませんが、幸か不幸かこの世にはOverleafというあまりにも偉大なオンラインサービスが存在するため、TeXと真面目に向き合うことを回避し続けることができています。

さて、TeXと真面目に向き合わなくても、プログラミングだの最近流行りの機械学習だのと向き合うことでもコンピュータとの和解は実現できそうに思えますが、これらの行いも私はかなり意図的に回避してきました。……正確にはプログラミングの経験がまったくないというと嘘になり、Turing computable functionのクラスとpartial recursive functionのクラスが一致することなどを示したことがあります。あ、あと再帰下降構文解析とかいうアルゴリズムを教わるなどしたこともあります。

以上のような経歴を持つことからうかがえるように、私は、無限の対象のもつ理論的な構造はかなり得意とするものの、有限の対象に対する実践的な工夫はかなり不得手としています。

基本情報技術者試験を受けた理由

さて、ここまでこの記事を読んでくださった方々は「なんでこいつは基本情報技術者試験を受けようと思ったんだ」とお思いになったかもしれませんが、これには静山より低くアゾフ海より浅い理由があります。

ある日Discordで通話していたのですが、そこである人が基本情報技術者試験の過去問を眺めていました。それに茶々を入れていたら、なんとなくノー勉でも受かる気がしてきました。

先に貼ったサイトから何問か過去問を引用し、どうしてそんなことを思ってしまったかをお話しします。

英語話者のネーミングセンスを察することで解ける問題

これの正解はですが、それはdeadlockという英単語の意味を考えると直観的です。

定義を推測して解く問題

これの正解もですが、このアローダイアグラムとやらの読み方が推測しやすいので解きやすいですね。

与えられた定義に従って解く問題

これの答えもですが、図の読み方が問題文にあるのでわかります。前のパターンより楽ですね。

 

既に私は「基本情報技術者試験は6割取れば受かる」という風の噂を得ていたので、あと、再帰下降構文解析を教えてくれたhsjoihsが煽りまくったので、こういう問題が6割以上であることを祈って受けることにしました。

結果発表

そんなわけで本日昼に基本情報技術者試験に受けてきました。結果は当日中にネットで確認できます。

結果がこちら

ほんとに受かっちゃったよ

 

 

 

 

 

『フォニイ / phony italian version (ツミキ) - Cover by Gianloop』歌詞書き起こし

www.youtube.com

 

Nel mondo non c'è fiore che è grazioso quanto artificiale
Tutto si può creare da una realtà di finzione
ANTIPATHY WORLD

Aprendo il mio ombrello la pioggia cadente non mi colpirà
Le gocce di tristezza, i capelli bagnati e il mio cuore si nasconde di già
Parole che appassiscono ancor prima che io le senta
Un solo frutto sta maturando in me
Sul volto mio dipingo tutto ciò che ho perso
Lo specchio che riflette le mie menzogne

pa pappa ra pappa rappappa
Facciamo un indovinello, gioca insieme a me
ta tatta ra tatta ra rattatta
Perché, perché siamo sempre qui a ballare?

Nemmeno le cose più semplici io riuscirò a capire mai
"Cosa sono e cosa faccio qui?"
Nella notte una mano tesa a me (svanisce l'amore)
Senza dire addio, piangendo finte lacrime
Phony
Phony
Phony
Ancora una bugia mi avvolge e non mi lascia più
(antipathy world)

Il cielo si apre in una melodia discordante e tu
Scompari in una notte di colori che
Cancellano uno a uno i ricordi di me
Perché il riflesso che vedi non è realtà
Dimmi, perché la gente pensa solo a quella piccola cosa chiamata amore?
Ancora il treno passa nella notte mentre nuoto e sprofondo giù
Dammi la mano e balla

pa pappa ra pappa rappappa
Facciamo un indovinello, canta insieme a me
ta tatta ra tatta ra rattatta
Perché, perché sento sempre solo dolore?

Quei giorni non ritorneranno mai più
La pioggia non si fermerà mai per me
Senza dire addio, piangendo finte lacrime
Phony, phony, phony
Per sempre una bugia mi avvolgerà

Nemmeno le cose più semplici io riuscirò a capire mai
"Cosa sono e cosa faccio qui?"
Nella notte una mano tesa a me (svanisce l'amore)
Sussurro "ciao, ci rivedremo un giorno!"
Phony
Phony
Phony
Ancora una bugia mi avvolge e non mi lascia più
Soltanto io vedo il segreto del fiore, phony

オタクは愛を韻律にのせろ

この記事は、筆兵無傾 Advent Calendar 2022 - Adventar 第11日目の記事として書かれました。

アブストラク

韻文で愛を詠うと楽しい。

本文

オタクには心から離れない存在がいる。時に「業」や「カルマ」とも呼ばれる*1この存在は、オタクの人格的連続性・同一性を規定するものであるにもかかわらず、そこへの感情を吐露する方法が日常の言語に殆ど存在しないという点で、オタクの精神に本質的困難を生じさせる。

しかし日常の言語を奪われたとしても、人類には未だ2つの媒体が残されている。非日常の言語と非言語である。ここでは、前者の代表例として韻文をお勧めしたい。韻文とは、聴覚的効果を重視した言語表現のことであり、韻文を書こうとすることは、言語の木構造と言語の線状性の緊張関係において敢えて後者の側に立つことで、言語化できないものの言語化できなさをそのまま言葉にしようという試みを促しうるからだ。

韻文一般について古賢の言葉に付け加えるべきことを私は持たない。そこで、議論はここでやめて、現世言語と悠里言語で私が感情を吐露した様を曝して記事を終えよう。

韻文の例

以下は、私が業を得たときのことを様々な言語で詠ったものである。

日本語(短歌)

現代日本語訳:(あなたと出会った)海の/思い出せない/青さよりも、/ありがたく光っている/あなたの(青い)瞳よ。

パイグ語(クッブーム)

現代日本語訳:私はあなたに心引かれることができるようにさせられたので、/(あなたの)輝く瞳は必ず私に強い炎を与えるのです。/川*2での色を私はふと思うな。/いつであろうとも、あなたが青色を冠しているのだから。

リパライン語(十二音節詩)

現代日本語訳:私の見た海、幸運の場所の色は、/既に時によって私の心から奪われた。/しかし、私の出会った人は、高貴な瞳とともに日常をしている、/あなた様が歓喜を与えたこの心で!

バート語(シャハバート)

現代日本語訳:私の見た海の色を、/多くの明るい見通しの後で私は思わない。/{私が心引かれた|輝く}女性を突然に見て、/ちょうどその瞬間に彼女のすべてが視線において生き始めた。

ラテン語(エレゲイア)

現代日本語訳:美しい海岸は甘く、よろこぶ私を満たした、/しかし大きな贈り物のゆえに、私はもう(その)水を覚えていない、/というのも美しい女性が海で、アズライトの稲妻とともにそのとき/私を、哀れな心のすべてを捕らえたからだ。

サンスクリット(シローカ)

現代日本語訳:親切をする海の色を、/私が今思うことは決してない。/その記憶を追いやったのだ、/贈り物がサファイアの輝きによって。

*1:近年は「推し」という語がこの概念を表すのに用いられるという報告もあるが、この語には「資本主義的な仕方でキャラクター性が大量に流通するという状況において、自身のキャラクターへの執着そのものを交換可能なものとして消費する」というニュアンスが感じられ抵抗がある。

*2:【水】は誤り

現代標準バート語入門① 動詞変化ことはじめ

この記事は 筆兵無傾 Advent Calendar 2022 - Adventar 第9日目の記事として書かれました。

ご挨拶

近年は、日本でも現代標準バート語を学習する方が増えています。その学習動機は様々なようですが、みなさん動詞変化に慣れるのに苦労していらっしゃいます。確かに、現代標準バート語の動詞変化は複雑なように見えますが、語形についても意味についても基本となるルールは非常に少なく簡単です。今回はそのルールについて解説しています。

変化形の一覧

バート語の動詞には、①動詞としての変化形②名詞など別の品詞になる変化形が存在します。更に細分化すると、以下の変化形を挙げることができます(例に挙げた動詞は規則動詞の bhátúḷ「話す」です):

  • ①動詞としての変化形
    • 終止詞
      • (能動)終止詞:bhátadhí, bhátamú, bhátaze, bhátabhá, bhátaká
      • 受動終止詞:bhátaḷo, bhátaní, bhátasá, bhátaṣí, bhátaho
      • 丁寧終止詞:bhátaḷadhí, bhátaḷamú, bhátacai, bhátaká
    • 過去分詞
      • (能動)過去分詞:bhátadína, bhátamúná, bhátazená, bhátabáta, bhátakátá
      • 受動過去分詞:bhátaḷoná, bhátaníná, bhátasátá, bhátaṣíná, bhátahoná
      • 丁寧過去分詞:bhátaḷadhína, bhátaḷamúná, bhátacainá, bhátakátá
    • 未来分詞
      • (能動)未来分詞:bhátadíha, bhátamúhá, bhátazebá, bhátabáṣlo, bhátakáṣlo
      • 受動未来分詞:bhátaníhá, bhátasáṣlo, bhátahobá
      • 丁寧未来分詞:bhátaḷadhíha, bhátaḷamúha, bhátacaihá, bhátakáṣlo
    • 命令形:bhát
  • ②名詞など別の品詞になる変化形
    • 名詞化する変化形
      • 不定
        • (能動)不定詞=辞書形:bhátúḷ
        • 受動不定詞:bhátáḷ
      • 名詞化(※この動詞については用例無し):bhátaz, bhátú, bhátaḍíṣ, bhátaḍí, bhátakáta, bhátabát
      • 副詞化:bhátama, bhátaghi, bhátáká

動詞変化の気持ちを理解するためであろうと簡単なバート語を読むためであろうと、この変化形のうち赤色の部分をきっちりマスターすれば八割がたの仕事が終わったと言ってよいでしょう。次の節「動詞の変化形」では規則動詞の辞書形(不定詞)から命令形・終止詞・過去分詞・未来分詞の語形を作る方法を、その次の「終止詞・過去分詞・未来分詞の使い方」では、皆さんが混乱しがちな終止詞・過去分詞・未来分詞の使い方を解説します。

動詞の変化形

バート語の語幹には第I幹~第VI幹までの6つの語幹が存在します。語幹とは動詞の変化形をつくるための基本となるデータで、規則動詞についてはほとんど辞書形と同じ形ですが、別のパターンの動詞(j短動詞、lor語幹、迷惑幹……)ではもう少し話は複雑です。それぞれの語幹はおおよそ次の変化形をします:

  • 第I幹:不定詞など
  • 第II幹:命令形
  • 第III幹:ほとんどの終止詞・分詞
  • 第IV幹:副詞化など
  • 第V幹:名詞化
  • 第VI幹:一部の終止詞・分詞

これから察せられるように、この記事の目的のためには第I幹~第III幹までを考えればよいです。さらにうれしいことに、規則動詞では第I幹と第II幹は同じ形になります。

語幹のつくり方

語幹は辞書形から作ることができます。作り方は、規則動詞の第I幹~第III幹については次のようになります:

  • 第I幹=第II幹:辞書形から末尾の úḷ を取り除いた形
  • 第III幹:第I幹の形から次のようにつくることができます
    • 第I幹が母音で終わるとき:第III幹=第I幹
    • 第I幹が子音で終わるとき:第III幹=第I幹の末尾に a をつけた形

例えば、規則動詞 záúḷ, bhátúḷ では、それぞれ第I幹=第II幹は zá, bhát と、第III幹は zá, bháta となります。

変化形のつくり方

語幹ができればあとは活用語尾をつけるだけで変化形がつくれます:

  • 第I幹を使うもの
    • 不定詞:第I幹に語尾 -úḷ をつけます。*1
      例)záúḷ の不定詞は zá-úḷ、bhátúḷ の不定詞は bhát-úḷ
  • 第II幹を使うもの
    • 命令形:第II幹そのものです。但し、第II幹に含まれる母音が語幹末のもの唯一つである場合は語尾 -zem をつけます。
      例)záúḷ の命令形は zá-zem、bhátúḷ の命令形は bhát
  • 第III幹を使うもの
    • 終止詞・過去分詞・未来分詞:第III幹に以下の語尾をつけます。*2

    • záúḷ の場合は下のように、

    • bhátúḷ の場合は下のようになります。

これで動詞の変化形をつくれるようになりましたね。「ちょっと待ってくれ、一人称や二人称ならともかく、いきなり『指示・固有』と言われてもどういうものかさっぱりわからないぞ。そもそも、不定詞や命令形はなんとなく使い方も想像つくが、終止詞・過去分詞・未来分詞はどうやって使うんだ?」と思われた方もあるかもしれません。ではそれについて次の節で見ていきましょう。

終止詞・過去分詞・未来分詞の使い方

終止詞・過去分詞・未来分詞によって区別される最大の違いは、注目している時点(以下「基準点」)と現在との関係です。具体的には、終止詞は「基準点が現在にあること」、過去分詞は「基準点が過去にあること」、未来分詞は「基準点が未来にあること」を表します。基準点の違いが文の意味のどのように関わるのかが、終止詞・過去分詞・未来分詞の使い方のポイントです。

動詞の分類

基準点と文の意味の関係は、動詞によって大きく3パターンに分けられます。これを、動詞の分類と捉えたのが、動作動詞・瞬間動詞・状態動詞の3つです。これらは、おおよそ次のように区別されます:

  • 動作動詞:「動作が未完了である状態から完了した状態へと基準点の時点で推移しつつある」様を表す動詞
    例)cákíkúḷ「~から来る」ṣonáronáúḷ「~を不思議に思う」zeúḷ「~を回す」horúḷ「~を書きとめる」
  • 瞬間動詞:「動作が未完了である状態から完了した状態へと基準点の瞬間に一瞬で変化した」様を表す動詞
    例)bhomúḷ「~を取る」dhozocúḷ「驚く」kádúḷ「光る」
  • 状態動詞:「基準点の時点で状態の変化が完了しており、ある状態にある」様を表す動詞
    例)bhárúḷ「風が吹いている」ṣíkahúḷ「座っている」kádúḷ「光っている」

上の kádúḷ もそうであるように、1つの動詞が意味によって複数の分類をもつこともあります。状態動詞の説明がわかりにくいので補足すると、例えば「光っている」という状態が「光る」という動作が完了したことによって生み出されているように、「基準点のときにある状態にある」という主張は「そのような状態に変化するという出来事が基準点よりも前のどこかで起きている」という主張と同じことだという話です。

hem と -bhápúḷ

さて、基準点と動作・状態の変化の起こった時間を比べる方法は、終止詞・過去分詞・未来分詞の使い分けだけではありません。hem と -bhápúḷ というものもあります。

前者の hem は文末の過去分詞・未来分詞の後につき、基準点を「動作・状態の変化の起こった時間」ではなく「動作・状態の変化の完了する時間」に移す機能があります。

後者の -bhápúḷ は第III幹について規則動詞をつくる接辞で、もとの動詞よりも少し未来側に基準点を移す機能があります。

バート語の時制

以上の知識をもとにバート語の時制を理解すると、以下のようになります:

  • 動作動詞・終止詞
    • 文末に置いて現在形の文をつくる
      例)kodhel nudhoramú.「君はこれを遊ぶ=君はこれを遊ぶという動作を現在しつつあるところだ」
  • 動作動詞・過去分詞
    • 文末に置いて過去形の文をつくる
      例)kodhel nudhoramúná.「君はこれを遊んだ=君はこれを遊ぶという動作を過去にしていた」
    • hem とともに文末に置いて過去完了の文をつくる
      例)kodhel nudhoramúná hem.「君はこれを遊び終わった=君はこれを遊ぶという動作を過去のある時点で済ませていた」
    • -bhápúḷ とともに文末に置いて大過去の文をつくる
      例)kodhel nudhorabhápamúná.「君はこれを遊んだことがあった=君はこれを遊ぶという動作をして、それより未来の位置にその過去の時点でいた」
    • -bhápúḷ, hem とともに文末に置いて大過去完了の文をつくる
      例)kodhel nudhorabhápamúná hem.「君はこれを遊び終えたことがあった=君はこれを遊ぶという動作を済ませて、それより未来の位置にその過去の時点でいた」
  •   動作動詞・未来分詞
    • 文末に置いて未来形の文をつくる
      例)kodhel nudhoramúhá.「君はこれを遊ぶだろう=君はこれを遊ぶという動作を未来にするだろう」
    • hem とともに文末に置いて未来完了の文をつくる
      例)kodhel nudhoramúhá hem.「君はこれを遊び終わるだろう=君はこれを遊ぶという動作を未来のある時点で済ませているだろう」
    • -bhápúḷ とともに文末に置いて前未来の文をつくる
      例)kodhel nudhorabhápamúhá.「君はこれを遊んだことがあるだろう=君はこれを遊ぶという動作をして、それより未来の位置にその未来の時点でいるだろう」
    • -bhápúḷ, hem とともに文末に置いて前未来完了の文をつくる
      例)kodhel nudhorabhápamúhá hem.「君はこれを遊び終えたことがあるだろう=君はこれを遊ぶという動作を済ませて、それより未来の位置にその未来の時点でいるだろう」
  • 瞬間動詞・終止詞
    • 文末に置いて丁度ある瞬間にある動作が行われること(現在形)を表す(稀)
      例)ṣíkahaze.「丁度この瞬間彼女が座った=彼女は座るという一瞬の動作が現在に起こっている」
  • 瞬間動詞・過去分詞
    • hem とともに文末に置いて過去形の文をつくる
      例)ṣíkahazená hem.「彼女は座った=彼女は座るという一瞬の動作が過去に済んだ」
    • -bhápúḷ(, hem) とともに文末に置いて大過去の文をつくる
      例)ṣíkahabhápazená (hem).「彼女はもう座っていた=彼女は座るという一瞬の動作をして(済ませて)、それより未来の時点に、その過去の時点でいた」
  • 瞬間動詞・未来分詞
    • 文末に置いて未来形の文をつくる
      例)ṣíkahazebá.「彼女は座るだろう=彼女は座るという一瞬の動作を未来に行うだろう」
    • -bhápúḷ(, hem) とともに文末に置いて前未来の文をつくる
      例)ṣíkahabhápazebá (hem).「彼女はそのころには既に座っているだろう=彼女は座るという一瞬の動作をして(済ませて)、それより未来の時点に、その未来の時点でいるだろう」
  • 状態動詞・過去分詞
    • 文末に置いて現在形の文をつくる
      例)ṣíkahabáta.「彼は座っている=彼は『座っている』という状態への切り替えを過去のある時点で行った」
    • hem とともに文末に置いて過去形の文をつくる
      例)ṣíkahabáta hem.「彼は座っていた=彼は『座っている』という状態への切り替えを過去のある時点で済ませていた」
    • -bhápúḷ(, hem) とともに文末に置いて大過去の文をつくる
      例)ṣíkahabhápabáta (hem).「彼はもう座っていた=彼は『座っている』という状態への切り替えをして(済ませて)、それより未来の時点に、その過去の時点でいた」
  • 状態動詞・未来分詞
    • hem とともに文末に置いて未来形の文をつくる
      例)ṣíkahabáṣlo hem.「彼は座っているだろう=彼は『座っている』という状態への切り替えを未来のある時点で済ませているだろう」
    • -bhápúḷ(, hem) とともに文末に置いて大過去の文をつくる
      例)ṣíkahabhápabáṣlo (hem).「彼はそのころには既に座っているだろう=彼は『座っている』という状態への切り替えをして(済ませて)、それより未来の時点に、その未来の時点でいるだろう」

以上です。欠けている形がなぜ存在しないかも考えてみてください。

人称の決め方

では最後に、動詞の人称を決める基準を説明します。いままで説明したような動詞を文末に置く場合では、次のようになります:

  • 一人称:話し手が含まれている集団が主語であるとき
  • 二人称:話し手が含まれず聞き手が含まれている集団が主語であるとき
  • 三人称・女性:話し手も聞き手も含まれない人・動物の集団や一人の女性が主語であるとき
  • 三人称・男性:話し手も聞き手も含まれない人・動物の男性の集団が主語であるとき
  • 指示・固有:主語が人間でも動物でもない場合が基本であるが、主語が未特定・不存在のものである場合(ásúka ám hemakátá.「人っ子一人いない」など)や主語が性別のわからない動物である場合も人称は指示・固有である。

更に、今まで触れてきませんでしたが、過去分詞や未来分詞は名詞を修飾することができます。この場合の人称も基本的には文末と変わりありませんが、修飾される名詞が分詞のひきつれる動詞句にとって三人称の主語である場合は、人称を指示・固有にすることができます。但し、動詞句の主語になりうるものの範囲が極端に狭い場合は本来の人称を使うのが普通です。例えば「マカティにいる男」は "makatiḍi hína hemakátá kí" と指示・固有で表現するのが普通ですが、「これを書いた女性」は "kodhel horazená sá" と三人称・女性で表現するのが普通です。また、この人称は動詞句の主語で決まるので、「私の見た女性」は "okákadína sá" となることに注意してください。

終わりに:これからどうするか

以上でこの記事で予定していた内容は終了しました。しかし、この内容はバート語の動詞の基礎に過ぎません。更に進んで学習したい方には、次の順番で学習することをおすすめします:

  1. 規則動詞から語幹(第I幹~第VI幹)をつくる規則:そのまで難しいわけではない規則なので一気に覚えられると思います。
  2. 規則動詞での受動・丁寧の変化を学ぶ:この記事では能動の変化しか扱いませんでしたが、実際の文には受動や丁寧の表現も登場します。これらの変化を能動の場合と比較しながら覚えていくことはバート語をする上で避けられません。
  3. 不規則動詞の語幹の形を覚える:バート語には、発音上もしくは歴史上の事情によりいくつかの不規則動詞が存在します。しかし、その数は数十パターンですので、それぞれ6つの語幹を丸暗記しても百かそこらしかありません。
  4. 実際に文を読んで覚えた変化に慣れる:ここまででバート語の動詞変化について学ぶべきことは学びましたが、実際に使ってみなければ身につかないものです。日本を代表するバート語教師である荒洲 宗保谷氏は文法の理解を非常に重視することで有名ですが、実際の彼の講義では、その大半の時間を演習に費やしています。それだけ語学において演習量は絶対的なものなのです。

これで本当にこの記事は終わりです。最後までお読みいただきありがとうございます。

*1:これは定義より明らかですね。

*2:過去分詞・未来分詞の語尾は、太字の部分を終止詞の語尾につけたと思うと覚えやすいでしょう。

【冠国地心集之律】冒頭を読む

この記事は 悠里・大宇宙界隈 Advent Calendar 2021 第23日目の記事です。

問題の所在

アイル共和国はしばしば文化保全に対する態度をその特徴として語られる。その際にほぼ確実に話題に上るのが文化省(伝統文語: 地心集)の存在である。某事件以前は教育や文化財保全を中心的な業務とする省庁であったが、某事件以後は文化教育と言語関係の業務が重視されるようになり、現代アイル共和国の政治的立場をある種象徴する省庁として認識されるようになった。アイル共和国は現世に比し法文中にその法令の意図・理念を明記する法慣例が強く、その帰結として、省庁の立ち位置は対応する設置法によく現れる。そのため文化省の設置法である【冠国地心集之律】は現代アイル共和国を紐解くうえで基本的な文献であると言えるが、原文は句読の使用すら忌避する保守的な伝統文語で書かれており、ファイクレオネの公文書に親しみのない我々には決して読みやすいものとは言えない。そこでこの記事では同法の冒頭の解説を行う。この記事が読者諸賢の現代アイル共和国に対する理解の一助となれば幸いである。

原文の漢字転写

人於時識或地心之故心行而豊心集常従地心此故別加而冠国生来之時人心悪行之硬時行即冠国使地心為人心豊而連人加人即須入力識来己生国人噫人心来其処之地心須在別而於真識此或人与而識其在従此之故無別噫別而我等国生大行而混混即地心混混而何生我等国之心此同混混噫於其時於全国連地心生硬別而於極識錘地心之冠国再硬噫此故与学極錘即通此与地心之学別而地心須生多類之心而与学在手為平之力即須付目於与学無傷多類質噫国軸此硬件之故官集人等与労件加地心集之名此律之上生冠国生集之律在

読解と補足

一文目

人於時識或地心之故心行而豊心集常従地心

グロス

冠国地心集之律 グロス - Google スプレッドシート

和訳: 人というのはもうとある文化を知っているから思いを巡らす(ことのできる)ものなのであって、豊かなキャダツは必ず文化に依存する


補足
  • アイル共和国の法文ではしばしば法の文脈を離れた一般論から話を始め、法令の根拠とすることがあり、この文はその典型例である。
  • アイル共和国の法令は、しばしばラネーメ的なものの典型例とされる土着信仰タカマズネの文脈のもとで語られるのが普通である。ここではタカマズネにおける重要な存在であるキャダツ(この世界の構成単位であるイヤの全体。イヤの代表例として人の心が挙げられる)が、文化(土地や民族に付随するイヤ)が豊穣であって初めて豊かなものでありうると主張することで、文化の重要性を指摘し、文化を担当する省庁の必要性を主張するための布石としている。

二文目(前半)

此故別加而冠国生来之時人心悪行之硬時行即

グロス

冠国地心集之律 グロス - Google スプレッドシート

和訳: このために、更にアイル共和国が誕生したときは人のイヤがやぐされている難しい時期であったから

補足
  • phil.2000年の天変地異により住処を追われたファイクレオネ人の一部が旧ラネーメ皇帝領に避難したのがアイル共和国の起源である。当時は故郷や多くの友人、財産を失った人々が多く心神喪失状態となっていた。後のアイル共和国首相である皇之上水たかまそらなはその手記の中で当時の様子を「敢えて心人としてこの国を見れば、民の混乱未だ拭えず。多勢を以てこの狭き皇帝領に住処を移しし折、家を失い、夜通し酒飲み、裁(シユ)を打ち、持てる財産総て失い、心を虚にする者甚だ多し。」と語っている。

二文目(後半)

冠国使地心為人心豊而連人加人即須入力識来己生国人噫

グロス

冠国地心集之律 グロス - Google スプレッドシート

和訳: アイル共和国は文化を利用して人のイヤを豊かにし人と人とを結びつけるのであって、人は自分はアイル共和国の人間であるということを自覚することができるようになるだろう

補足
  • 前半を受けて、アイル共和国が文化振興を通じて達成しようとする目標が語られている。それは人のイヤを豊かにすることであり、人と人とを結びつけることや国民意識を育むことはこれに付随するものとして扱われている。人のイヤの豊かさはタカマズネにおいてはキャダツの豊かさと深くかかわるものなので、これが文化振興を通じて行われるべきことは当然のこととして詳しく述べられていない。

三文目

人心来其処之地心須在別而於真識此或人与而識其在従此之故無別噫

グロス

冠国地心集之律 グロス - Google スプレッドシート

和訳: 人はそこの文化が当然存在すると思う(ものである)が、本当のところは、これを知っているということは、ある人が与えてその存在を知ってこれを従うことに由来してに他ならない

補足
  • 文化というのは土地に勝手に付随するものではなく、そこの人々が継承してはじめて存在できるものであることを確認している。

四文目

別而我等国生大行而混混即地心混混而何生我等国之心此同混混噫

グロス

冠国地心集之律 グロス - Google スプレッドシート

和訳: しかしながら、私たちの国は大規模な移動の結果として混乱しているので、文化は混乱しており、何が私たちの国のイヤなのかということも同様に混乱している

補足
  • 「大規模な移動」というのはphil.2000年の天変地異に伴うファイクレオネ全域で相次いだ避難のことである。様々な地域の様々な民族が日本の半分程度の面積に押し込まれて、地域のコミュニティによる文化の伝達がほとんど不可能になり、またその人々が国をつくったため国民としてのアイデンティティを形成するような文化も存在しないというのが、アイル共和国建国時の状況であった。
  • 「国のイヤ」というのは「その国らしい文化」という意味と捉えてよい。文化はタカマズネにおいては地域のイヤと理解されていることを思い出そう。

五文目

於其時於全国連地心生硬別而於極識錘地心之冠国再硬噫

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和訳: そのような時期ではすべての国家において文化をつなげることは難しいが、重要なものである文化を特に認識しているアイル共和国ではそれは更に難しい

補足
  • 原文が【識錘地心】の語順だったため「重要なものである文化を認識している」と訳したが、【識地心錘】「文化を重要なものと認識している」や【錘識地心】「文化を重く捉えている」の語順の方が自然な表現である。
  • 直近の大災害を生き延びたファイクレオネ人が文化を継承していくことには大きな困難があると主張しており、特に文化振興を重視するアイル共和国にはその困難が重くのしかかるということを確認している。

六文目

此故与学極錘即通此与地心之学別而地心須生多類之心而与学在手為平之力即須付目於与学無傷多類質噫

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和訳: そういうわけで教育はとても重要であるから、これを通して文化を教育するのであるが、文化は多くの種類のイヤを生じさせるべきである一方で教育は均一化の可能性を有しているので、教育が多様性を傷つけぬよう注意しなければならない

補足
  • 前の文で見た通り、アイル共和国建国時のファイクレオネは文化の自然な継承に困難があった。そのため国家主導で文化教育を行うことで継承を担保することが重要視された。
  • そもそも文化を重要視するのはキャダツが豊穣であってほしい、つまり人のイヤが多様であってほしいからであったが、教育というのはともすれば多様性を損ないかねないものである。そのため、文化教育という概念には多様性の増大と現象という真逆の側面が隠されていることになり、実現には充分な注意が必要になる。

七文目

国軸此硬件之故官集人等与労件加地心集之名

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和訳: 国の軸であるこの難事を理由として、政府は人々を集めて実際の仕事と文化省という名前を与える

補足
  • 今までアイル行政における文化の位置づけとそれに伴う困難について語られてきたが、この法律が文化省の設置法である以上、その主張を文化振興が省庁の設置など国家による事業として行われる必要があるという主張と接続しなければならない。その役割を担うのがこの文であり、文化振興というものが国家にとって重要かつ多くの難題を抱えていることを理由に文化省の設置を正当化しようとしている。【国軸此硬件之故】「国の基盤であるこの難事のために」という表現はこのようなときによく用いられる慣用的なものである。

八文目

此律之上生冠国生集之律在

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和訳: この法律の上位法としてアイル共和国省庁設置法が存在する

補足
  • 【冠国地心集之律】「アイル共和国文化省設置法」は【冠国生集之律】「アイル共和国省庁設置法」を上位法とするということである。

趣旨要約

アイル共和国はキャダツの豊穣さや国民の連帯・国民意識の観点から文化を重視する。しかしながら、phil.2000年の天変地異に伴う社会の混乱により文化の継承に困難が生じており、また国を代表する文化も存在しないため、国家主導の文化教育によってこの解決を目指す。多様性を抑圧しかねない教育という形で文化多元性を確保する事業を行うのには細心の注意が必要とされるため、専門の部署を設置し文化省と命名する。

結論

【冠国地心集之律】冒頭の読解を行い、簡単に文化的・政治的背景の補足を行ったが、アイル法に関心のない一般の読者にとって、法文はそれ自体として研究の対象となるものではなく、むしろ現代アイル理解のための一つの手掛かりに過ぎないであろう。この記事はそのような読者を主に想定しているので、法文の仔細を述べるのはやめにして、以上の読解をもとにアイル共和国の現状について二三述べて結論としよう。

まず、【何生我等国之心此同混混】「何が私たちの国のイヤなのかということも同様に混乱している」の部分に関係して、この法律の制定後【我等国之心】と呼ぶにふさわしいものが誕生したのかという疑問が生じる。既に日本語文献で紹介されているように、アイル共和国を象徴する文化を生む出す努力として官定机戦を理解することができるというのが(殊に日本の読者にとっては)この疑問に対する一番わかりやすい答えであろう。

ところで、公教育での官定机戦の扱いもおもしろい。もちろん国民の中での官定机戦の知名度を上げようとしているのと、そもそも机戦はルール差が大きく他に公教育で扱いやすいルールがあまりないことから、公教育で行われる机戦は官定によるものが多いのであるが、それぞれの家庭や地域に伝わるルールは尊重されるべき文化であること、官定は互いに相手の用いるルールを理解するときの基準としての用途もありその意味で官定を知っていた方が親切ではあるがこれが官定の他のルールに対する優越性を意味するのではないことが、官定机戦を取り扱うときに強調されている。【地心須生多類之心而与学在手為平之力即須付目於与学無傷多類質】「文化は多くの種類のイヤを生じさせるべきである一方で教育は均一化の可能性を有しているので、教育が多様性を傷つけぬよう注意しなければならない」の精神のわかりやすい例である。

最後に、今回読んだところでは明確には触れられていないが、特に某事件以降、文化省は言語政策においても大きな存在感を見せており、日本でも紹介されているように、言語教育や行政の多言語化などに携わっている。言語を取り扱う象徴としてはユエスレオネ連邦の言語翻訳庁(farzist lkurftless ad akrunfto)が有名だが、FLAが言語自体を対象としている向きがあるのに対し、文化省の方は「言語は文化や思想の乗り物である」という認識が見え隠れする。FLAと文化省はよく対比されがちであるがこのような基本的なスタンスの差が存在し、このことを「個別言語学者文化人類学者の違い」と表現する人もいる。

このように文化省、ひいてはアイル共和国も時代の流れに即して変化を続けている。今回紹介した内容はその変化を読み解く手がかりとしては充分とは言い難いが、それについては他の識者による紹介を参考にしたりあるいは読者自身による研究によって補ってほしい。